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ジャパン・ハウス

CULTURE

記憶、マンガとブラジルへの日本の影響
2017.03.10
ルーべンス・リクペロ氏は語るべき多くのストーリーを持つ。非常に多彩な経歴の持主であり、財務大臣、駐米大使といった重職を歴任。ブラジルのアルマンド・アルバレス・ペンチアード大学で教鞭をとる傍ら、ジャパン・ハウス サンパウロの名誉館長を務める。いまだ精力的に活動し、多忙な日々を送る中、名誉館長から日本文化と、日本のブラジルへの影響について語ってもらった。ブラジル人と日本人の間にはなぜこれほどの共感があるのか。それは以下、名誉館長の話の主なトピックを読むだけで充分に理解することができる。
 
ブラジルと日本の縁

「2016年夏、ブラジル人の日々はブラジルと日本間の団結の軌跡を示すオリンピックに沸いていた。それは開会式の入場であり、日本選手団が観客から最も盛んに拍手を受けたチームの1つだったという事実によって証明された。開会式に参加したあるアメリカ人記者は、ブラジルでの日本の人気の高さは理解できないミステリーのようだと書いていた。この記者は、ブラジルにおいて日系コミュニティは非常に大きなものであり、第二次世界大戦中に生み出された歴史的な事由にも関わらず、二国間には非常に大きな共感があるという事実を知らなかったようである。」


自己宣伝をしない日本人の多くの行い

「我々が持つ日本と日本人に関する記憶はポジティブなものであり、また、その歴史についても同様であった。例えばもうすぐ80歳になる私はサンパウロ生まれだが、以下のように証言することができる。子供の頃から自宅で日本人について話すときは常に誉めるばかりで、ブラジルに沢山の野菜や果物をもたらした日本人は勤勉で真面目で規律正しいと話していた。日本人が移住してくる前は、ブラジルの果物の種類は少なく、熱帯フルーツしかなかった。日本人農家はブラジル社会に革新、すなわち気候順応や良いことを沢山もたらしたのである。その後も日本人はブラジルに貢献し続け、この国の発展に大きく寄与してきた。日本人の生活スタイルと国民性は、自らの行いを見せびらかさないので、一見した限りではその価値はよく分からないのである。その他の国とは対照的に、日本人はその国民性からほとんど自己宣伝をしないため、時に彼らが重要なことを成し遂げたということはあまり知られていない。」

 

日本と大豆

「私は現在、ブラジル発展における現代外交の寄与に関する本を執筆中である。1970年代のエルネスト・ガイゼル将軍時代にブラジルが国際協力を受けた章を書き始めた時、大きく成功した最初のプロジェクトはブラジルがJICA(独立行政法人国際協力機構)とともに行った国際協力であったと書いた。1970年代初頭、JICAはセラード地域で農業、特に大豆耕作を実施するためブラジル政府と協定を結んだ。ブラジル農業における成功はこのプロジェクトから生まれたことをごくわずかな人々だけが知っている。

当時のアリソン・パウリネリ農相と結ばれたこの協定により、日本はセラードに20年にもわたって何十億円を投資した。これは、本来寒い地域で栽培される大豆などの耕作が、熱帯気候に適合するよう改良されて成功した協働プロジェクトである。今日、ブラジルにおいて大豆は気温が極めて高い場所、ピアウイ州南部、バイア州西部やトカンチンス州で栽培されている。過去30~40年の間にブラジルが成し遂げた近代農業のルーツにおけるこの疑いようもない成功は、パウリネリ農相によって設立されたEmbrapa(ブラジル農牧畜研究公社)とともに取り組んできた日本人がいたことなどは周知されなかったため、ごくわずかな人しかそれを知らないのである。

また、ブラジル、日本(JICA)、アフリカ諸国間の三者協力という取組みも興味深い。アフリカにはモザンビークとガーナに2つの拠点があり、ブラジルの経験をアフリカのサバンナに適用することが試みられている。このプロジェクトは商業的なものではない。商業ベースであれば、アフリカが市場と見なされるところであるが、そこで行われようとしていることは、食糧を生産するためにアフリカの人たち自身の能力を伸ばすことである。つい最近までブラジルは消費食糧の30%を輸入に頼っていたが、今日では大きな輸出国になっている。」

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創造力と忍耐

「日本の文化は非常に創造的である。1950年代初頭の私が若かった頃、サンパウロでは毎週3,4本の日本映画が公開されていた。映画館はセントロのリベルダーデ地区、ジョアン・メンデス広場の後ろにあった。私は日本映画を見るのが大好きで、いつもそこに行っては批評も読んでいた。日本映画を専門とする評論家までいた。また、私には日本文化に魅了された友だちがいて、日本のフェンシングとも言うべき剣道を習いたがっていた。彼は剣道の学校に行って、そこで毎日、練習を見ていた。だれかに何も聞こうとはしなかった。その友だちが15回ほど練習を見に行き、諦めないことを示してからようやく、誰かが彼に近づいて、彼が興味を持っていることに気が付いたと述べた。その日からやっとその友だちは練習を始めることができたのである。一過性の好奇心だけで練習に参加されると互いにとって無駄な時間が生まれてしまうというのを避けるため、このように人の意欲を確かめる習慣を持っているのである。練習の初期段階では、日本人はこの友だちに竹刀も持たせなかった。道具を使わない練習のみで、しばらくしてから竹刀が与えられた。非常に段階的である。忍耐力を持つこと、また異文化において敢えて回り道を行くということを知ることが必要である。」  


日本と若者

「現代社会における大きな課題のひとつは、若者の考えと心に訴えかけることである。1970年代、私は外務省文化部の責任者であり、イベントの開催などを手掛けていた。読書や映画鑑賞が好きな40~50代の大人を惹き付けることはそれほど難しくない。しかし、独自の言語とテクノロジーとともに生きてきた若者に至ってはそうではない。日本は、ブラジルの若者を引き付けることができる数少ない国の1つであると思う。例えば、私の16歳の孫はマンガに対する興味がとても高い。彼女は数年前からマンガを集め始めて、マンガで埋め尽くされた自分のライブラリーを持っている。私はマンガのため彼女を日本に連れていくよう娘夫婦を説得した。ヨーロッパの美術館など伝統的なものを見せたとしても、彼女は興味を示さない。孫が文化を知らないわけではないが、彼女やその他の多くの若者はこういった流れの中にいるのである。このように若者はマンガ好きであり、また別の若者はテレビゲームが大好きなのだ。」

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マンガとジャパンドリーム
ファクトリー
「日本は非常に珍しい国のカテゴリーに属している。言うなればドリームファクトリー、夢の国である。アメリカは100年ほど前、ハリウッドとテレビを通じて世界中の大きな夢の国であった。我々は皆、アメリカ映画を見て育った。アメリカ人はアイディア、夢と価値の宝箱を発明したのである。外交においてはこれをソフトパワー、より広い意味で文化の力と呼ばれる。幼少時代からとある国の歴史に親しんでいると、その国に自分を重ね合わせるものであるが、そのような国は多くない。イギリスはビートルズやローリングストーンズなどのバンドによって、アメリカのロックを引き継いだ。一方、日本は独自のアイディアとスタイルでマンガを再構築し、マンガをあらゆる言語に仕立てることができた。日本人はソフトパワーを作り上げる力、若者を惹き付ける力を持つ。私はジャパン・ハウスは、日本が若者にとっての国でもあることを示す良い機会であると考える。日本は古い文化、伝統文化、能といったすばらしい面を持つだけではなく、未来の新たな言語を生み出し、直接的な即時コミュニケーションを可能にする。このような場として、ジャパン・ハウスは若者の間で成功する最初のイニシアチブになると思う。」
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ブラジルにとってのモデル
「ブラジルは、日本は貧困から脱却することができたエコロジカルな国であることを理解する必要がある。日本は脱工業化社会である。現代の日本は革新的で、卓越した厳しい品質管理に関する課題を克服するためにブラジルが必要とするものである。そのため、ジャパン・ハウスは出会いの場所である以上に、実際に息づく日本の一部であり、今の日本を体験するための場所である。」
ジャパン・ハウス サンパウロ
「ジャパン・ハウスは、サンパウロの中心部における現在の日本への入口、日本の一部となる必要がある。パウリスタ大通りからこのスペースに入ってくる人は、異なる現実、人間的かつ文化的で類を見ないような世界に入りこむため、現実をひとつ後にしたと感じるはずである。これら2つの現実世界を分けるする伝統、文化、芸術や最先端技術などの要素が存在するのは明らかであるが、それだけではない。日本は生きる、すなわち人生と向き合う独特のかたちを持っている。ジャパン・ハウスでは、お辞儀する、足音を立てずに歩く、公の場でも目立たないよう話す、ジェスチャーで示す、食べ歩きをしないなど独特のスタイルをブラジル人やあらゆる来館者に対して示す。要するに、生きることを改めて紹介するひとつの方法である。ジャパン・ハウスはこのような雰囲気の中で、訪れた皆様がまるで日本にいるかのように感じられるようにする必要がある。それは緩やかな仕切りと柔軟な雰囲気で満たされ、また、時にはスペースとして、時にはくつろげる場所として、ニーズに合わせて変化する日本の家の中で生活しているような感覚である。日本人の生活の独自のエッセンスであるかのように、これらすべてがジャパン・ハウスに存在している必要がある。したがって、ジャパン・ハウスの役割はサンパウロの中心部で息づく生きた日本の一部となることであり、それを維持していくことである。」