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ジャパン・ハウス

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ブルージーンズの国:日本のデニムの略史
2017.09.19

デニムのブルージーンズは、もともと農夫や炭鉱労働者、カウボーイの作業着として作られたが、今では誰もが着用する。世界中で男性も女性も、老いも若きも、アーティストもエグゼクティブも、誰もが利用する必需品とも言えるだろう。ジーンズには、いまだにアメリカというイメージがあるかもしれないが、ここ十数年、ジーンズ通はデニムの製造者や流行の仕掛け人として、別の国に注目している。日本だ。日本におけるデニムの歴史は実に面白い。伝統的織物を革新し、巧みに文化を取り入れることで、この国は新しい時代のジーンズを作り上げた。
 
日本にジーンズが入ってきたのは、第二次世界大戦後。アメリカの占領下にあった日本で、米兵が闇市で予備のジーンズの販売や取引をしたのが始まりである。日本の若者は、アメリカから入ってきたポップカルチャーを享受し、ジャズやロックンロール、そしてジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドら映画スターへの憧れから、ジーンズもまたエキゾチックで次世代的な格好良さのシンボルとなった。しかし、人気が出るにつれ、ジーンズの入手は困難になり、価格は高騰。いわゆるジーパン(G.I.パンツを表す日本語で、ジーンズを意味するスラング)は、東京のアメ横や米軍基地周辺の余剰物資を販売する店でしか買えず、数も限られていた。
 
日本の小売店は、徐々にリーバイスやリーの新品ジーンズの輸入を開始。しかし、そこにはパラドックスがあった。ジーンズが闇市の「無法者」文化や「理由なき反抗」といった若者の反乱を連想させるものであったにもかかわらず、ジーンズに憧れる多くの若い消費者たちには、高価すぎて手が届かない存在となったのだ。しかも、もともとデニム愛好者が好んだのは、G.I.が履き古し、すり切れて柔らかくなり、色の褪せたジーンズだ。だが、外国から輸入されたジーンズは、新品で色も濃く、ゴワゴワしていた。日本のファッションと小売りの起業家たちはこの市場の潜在力に気づき、改革の必要性を感じた。日本初の国産デニムの製造である。
 
何世紀も前から、日本の各地には、優れた織物や染色の伝統があった。岡山県の児島もそんな地域の一つであり、1920年代から国内の学校制服製造の中心地となっていた。1964年、児島の主力工場であるマルオ被服が独自のジーンズの製造を開始したが、すぐに行き詰まった。日本の伝統的な藍染めは、綿繊維を完全に染めてしまうが、アメリカのデニムの繊維は、糸の一部が染まるだけで、中心の部分は白いまま。それがあの独特な「褪せ感」とすり切れによるブルージーンズらしい風合いを作り出していたのだ。そのため、最初の数年間マルオは独自ブランドの「キャントン」や「ビッグジョン」製造のためにアメリカのデニムを輸入しなければならず、厚い布を縫うことができる重機ミシンも購入しなくてはならなかった。同じ頃、1893年の創業以来、伝統的な着物染色を手がけてきた広島のカイハラ株式会社が新しい藍染め技術を考案。1967年には、ミシンからファスナーまでジーンズ製造のすべてにおいて「自給自足」が実現した。その後、かつてヴィンテージ・ジーンズを愛した消費者たちに好まれるよう、プレ・ウォッシュという技術も導入された。

業界は大きく発展し、1969年に700万点だった売り上げは、1971年には1500万点に上った。さらに1973年には4500万点にまで膨れ上がる。エドウイン、ビッグストーン、ベティスミス、ジョンブル、バイソン等、国内ブランドが急増。どれもアメリカ西部のイメージを利用してはいたが、完全に国内で生産されるようになった。ジーンズは反抗期の若者だけでなく、万人向けの定番ファッションとなり、熱狂的にデニムを愛する人々も現れた。
 
1980年代、日本のデニム・ファンの中から、はるばる渡米して中古や廃番のアメリカン・ジーンズを買い、東京や大阪の人気ヴィンテージ・ショップで再販する者が現れ、その過程でまるで考古学的専門知識のような蘊蓄(うんちく)まで語られるようになった。この頃、アメリカのデニムブランドの質は低下。日本のデザイナーや消費者は、オリジナルのリーバイス501やその他のモデルの伝統的な職人技にさらに注目するようになる。90年代以降、エヴィス、キャピタル、ステュディオ・ダ・ルチザンといった新しいブランドは、そうした伝統に着想を得た独自の商品を作るだけではく、オリジナルを改良するという試みも開始。旧式の装置や技術等、大量生産の広がりによって切り捨てられてきたディテールへのこだわりを復活させ、まったく新しいジーンズを作り出した。織機で織られた布のほころびを防ぐ「セルビッチ」の入ったデニム等だ。サムライや桃太郎といったブランドは、よりわかりやすく日本の文化や美学を織り込み、伝統的な神話やシンボルを前面に押し出している。
 
2000年代前半になると、エキゾチックなクラフト、刺激的なデザイン、そして巧みな文化の融合として新しい日本のデニムが世界に注目されるようになった。今や西洋のブランドが真似をする番だ。ファッション系のブログでは、人気が再燃したセルビッチデニムやその他のトレンドの話題で持ちきりとなった。そして、人気に火をつけた日本のジーンズメーカーの革新はさらに続く。
ファッション・ジャーナリストのデーヴィッド・マークスは、著書「AMETORA日本がアメリカンスタイルを救った物語」の中で、「デニムは日本が誇れる新しい分野となった」と語る。「この国は、高級織物、高品質の裁縫、革新的な生産技術、飾り気のない表現のグローバル・スタンダードを確立した」。今日、日本のデニムの物語は完成形に達した。かつて日本メーカーは、成功のためにアメリカ製らしく見せる努力をしていたが、今や世界中のデニムメーカーが日本製に見られるよう必死になっているのだ。

 

エヴィスの創業者、山根英彦

1959年、大阪に生まれた山根はファッションに憧れて成長し、修業を積んでテーラーとなる。1980年代後半、山根はラピーヌという大阪の小さなブティックに勤務。アメリカのヴィンテージ・デニムを大量に販売していた店だったため、リーバイスのようなブランドの変遷を詳しく学ぶことができた。旧式の織機を使用し、山根は実験的にリーバイス1944年モデル501xxの独自バージョンを製作。1988年に退社し、自身のジーンズ会社を設立する。ジーンズの名前は「EVIS」。もちろんリーバイスへのオマージュだが、それはまた繁栄の神、恵比寿にも由来している。どんなデザインか? バックポケットに抽象化されたカモメ(リーバイスのアーチ型のステッチと同じような)が白くペイントされている。創業から間もない中、ジーンズは即完売した。やがて、山根はブランド名の綴りを日本神話における金運の神である恵比寿にちなみ、EVISUに変更した。リーバイスの法務チームとの衝突を避けるためであり、また山根自身のデニムの祖であるエルビスを連想させる、という理由もあった。EVISUはすぐに日本の大手ファッションブランドとなり、世界にも進出。現在、世界各地に150以上の店舗を構え、EVISUのブランド名は、ヒップホップのスター、ジェイ・Zやリル・ウエインの歌にまで登場するようになった。山根は業界に名を残すデニムの先駆者の一人に過ぎないが、EVISUは日本発の典型的なサクセス・ストーリーとして語り継がれていく。